筑波山 深い霧の世界を歩く

今日は筑波山に登る日。東京は晴れた空の中を早朝に出発したのだが、予報に反して、バスが茨城県筑波山神社入口に到着して間もなく雨が降りだしてきた。雨対策をしてこなかった僕は、レインウエアも帽子も持ってきていない。雨が止みそうにない気配に今日は諦めて帰るかどうしようかと土産屋の軒先で、上空の雲を見上げながら逡巡する。
でもせっかくここまで来たのだし、行けるところまで行こうと思い、登山道へと向かうことにした。山に入っても雨が降り続き、足が泥濘に滑りそうになる。森に響く雨音は、時に大きくなったり、時に小さくなったりをくり返した。木の葉からは水滴が次から次と滴り、僕の髪の毛からも雨が滑り落ちてきた。だが、40分経ったくらいだろうか、上空に日が差してきて、雲が薄くなってきたのがわかると、雨足は徐々に弱まっていった。ああ、良かった。僕はこの先の不安材料がなくなったことに気持ちが途端に軽くなった。
森の奥に進むにつれて、霧が一気に立ち込めてきた。足元が見えるだけで、先の道は霧に覆われて見通せない。埋め尽くす霧が音を吸い込んでしまうのか、ここはあまりにも無音の世界だ。葉や木の枝を踏む音が大きく感じられるほどにしんと静まり返っている。時間は正午近くになるというのに薄明るい。上空を覆っている緑の葉の透き間からは日が差し込んできて、それが霧に柔らかく反射して光の柱を森の中へ伸ばしていた。霧との境にある微粒子の光りはゆらゆらと舞っていた。
ぱき、ぱきと枝を踏む音が聞こえてきた。すると突然、人影がうっすら霧の中から現れた。誰かが下山してくるようだ。その人は僕の目の前まで下りてきて、「どこまでも霧に覆われてすごいね。今まで何回もここに登ったけど、初めてだよ、こんな景色を見たのは」と言った。僕は「本当に幻想的でこの世ではないみたいですね」と言葉をかえした。「足元が見えづらいから滑らないように気をつけて、さっきそこでも転びかけたんだ」と言って、その場所を指差しながら彼は山を下りていった。ペットボトルの水を飲み、彼が下りていったほうをみると、彼の姿は霧の中に吸い込まれて、やがて完全に見えなくなった。
霧に包まれながら歩いていくと、僕と同じくらいの背丈の木の下に、枯れ葉に混じって椿の花が一つ落下しているのを見つけた。それはまだ綺麗に咲いている状態で、ついさっき落ちたばかりのようだ。花びらを広げたその姿は、周囲の枯葉が覆い尽くす大地にあって、唯一強い生命力を放っているように見えた。この椿の花はやがて微生物に分解されて腐り、朽ちた葉とともに地中へと還って自然の一部になっていく。この花は刻々と変化していき、今の姿は今だけのものなのだと思い巡らした。太古から変わらない自然の摂理。すでにそう決まっているという予定調和の中に全ての命はある。僕はある写真家が撮った自然界の生物を捉えた写真集を思い出した。その中の写真に、野生の中で生き絶えた鹿の死体が時間の経過とともにどう変化していくのかを捉えているものがあった。その鹿は小動物にたかられて食われ、そして放置されて蛆が湧き、どんどん腐敗していった。見ている僕は死とはこうゆうものだということを突きつけられる思いがした。最後の写真ではほぼ骨だけが綺麗に残っていた。
僕はこの綺麗な花の朽ちていく姿をここでずっと見ていたいと思った。どんな過程を経て無くなってしまうのだろうか。腐った匂いはどんな匂いなんだろう。この赤い色はいつまで赤のままなのだろう。しかし、それを確認するのは不可能なことと分かっていた。仕方なく僕はその落ちたばかりの花を何枚か撮影して、その場を後にすることにした。
ますます霧は濃くなっときて、手の輪郭さえも霞んで見えてきた。手を眼前に持ち上げて見ると手の甲の皮膚にはうっすらと極小な水滴が張り付いていた。僕はそれを舌で掬い取って口に含んでみた。何か感じるかと思ったけど、汗の塩分が味覚を少し刺激したくらいだった。ここにいるのは僕一人で、先の道にも、後ろから来る人もいない。この乳白色の世界は果たして本当に現実なのかと疑ってしまうほどだ。先が見えない向こう側を進んだらもしかしたらどこかに迷いこんでしまうかもしれない、そんなことを思ったりするのはきっと現実感の乏しさからだろう。誰か人が通ってくれればいいのに誰も来ないために、どこか足取りも不安げだ。谷の底は霧が覆い隠していて、深さがつかめない。先の見通しも悪いので、滑らないように気をつけながら、足運びを慎重にして道を行く。
霧の中から巨大な岩が組み合わさってできた門が眼前に現れた。人間の力では到底運ぶことができない岩が積み重なり、上に被さっている巨岩は少しでもずれたら落っこちてきそうなほどに危うさを孕んでいる。どういう力量が発生して、この門の形に至ったのだろうかと不思議に思う。落ちそうで落ちない絶妙なバランスをとりながら鎮座するその美しさと圧倒的な大きさが相乗して、見るものに畏怖の念を抱かせる。この深い霧の中だからということも作用しているのかもしれない。事前に仕入れていた情報によると、あの弁慶でさえもこの岩の門をくぐるのを恐れたという言い伝えが残っているようだ。
そのトンネルをカメラで撮ろうとした。しかし、カメラのシャッターを押すが、ピントが迷い、なかなか合焦してくれない。じー、じーと必死でカメラはピントを合わそうとしている。この霧が遠近感をおかしくさせてしまうようだ。そのため、同じ距離くらいにあるものでピントを一度合わせてから、カメラを向けなおしてシャッターを切った。誰か人が通るところを撮りたいと思って待ってみるも、やはり人は来ない。
二度ほど、そのトンネルを出て入ってをくり返してから、登りを再び開始した。頂上付近に差し掛かると、ここまでは雨雲は来なかったのか、盛り上がり、露出した木の根が埋め尽くす道は濡れていなかった。僕は尾根沿いを歩き、進むペースをあげていく。巨大な岩石の後ろには青い空が広がっていた。爽快な気分で頂上に到着し、遠くまで景色を望む。この山の標高はそれほど高くはない。田んぼの中にある家々の形も分かるほどだ。向こうの民家の上空には灰色の雲が広がっていて、あの雲が午前中に、山に雨を降らせていたのかもしれないなと思った。
つい先ほどまで、この世界とは思えない神秘的な景色の中を歩いてきたのだ。眼下に広がる見晴らしの良い景色をみて、歩いてきた道は間違っていなかったという安心感を覚えた。霧に包まれた世界を歩きながら、いつのまにか、僕はどこかに迷いこんだかもしれないという不安な気持ちになっていたのだ。どこかと繋がっている不思議な境界があるとしたら、今日僕が通ってきたような場所なのかもしれない。十分な休憩時間を取り終え、賑やかな周りの登山者の声を聞きながら、下山を開始した。もう雨の心配はないだろう。暑い日差しを避け、木陰を見つけながら歩いて山を下っていく。
下山途中、あの落ちたばかりの椿の花を探してみたが、どこにも見つからなかった。

瑞牆山 銭湯とビールは欠かせない

朝5時半に起床。シャワーを浴び、登山の荷造りに取り掛かる。大丈夫かとは思うけど一応長袖のシャツとレインウェアもバックパックに詰める。6時半に出発。恋人さんがまだ眠たそうな顔で見送ってくれた。今日接近するとニュースで言っていた台風の影響が心配だったけど、空一面青空が広がっていた。予報でも夜まで晴れマークがついていたので、絶好の登山日和といえそうだ。新宿で特急あずさに乗って、韮崎からバスで瑞牆山荘へ向かう。3時間ほどかけて到着した。登山計画書を出して10時30分にスタート。登山道にはいり多彩な緑の中を進んでいく。気温の上昇とともに、吸水性と速乾性に期待して着てきたTシャツはその期待とは裏腹に汗をかけばかくほど不快さを増してきた。これは完全に失敗だ、もう耐えられないとなり、替えのTシャツに着替えた。汗を吸ったTシャツはかなりの重さになっていた。自分が想定以上に汗をかいてしまったというのか、シャツを蔑んだ目で見やる。もうこれは家のパジャマにすると決めてコンビニの袋に突っ込んだ。巨大な岩をよじ登りながら山頂を目指す。岩が積み重ねられてできた山なのか、登れど登れど巨岩が道に立ちはだかる。傾斜が急な登りが続き、足に疲労が溜まって立ち止まる頻度が多くなる。息を切らし汗は替えたTシャツをも間もなくびっしょりと濡らした。持参した水もハイペースで減っていく。山頂手前にある大ヤスリ岩が見えてもう少しだと自分にハッパをかける。開始してから二時間と少しの時間で登頂。残念ながら山頂はガスっていて周りの視界はほぼ見えずだった。しかし風が吹き、ガスが流れてその切れ間から景色がうっすらと現れ始めた。現れたのは異界を思わせるような、雲をまとう直立する岩山の姿だった。目が見開き、これはすごいぞと慌ててシャッターを押す。岩壁の周囲の雲が霞み流れていく様を見た。僅かな時間だったけど、この瞬間でなければ見えない世界が広がっていた。その後ですぐにまたガスが広がり、しばらく粘ってみてもガスは晴れなさそうなので下山を開始する。帰りのバス時間もあるので帰りは急ぎめでいく。ところが、10分くらい進むと上空は青い空が勢力を増して広がり始めた。あ、今戻れば頂上も晴れているかも。バスの時間も気になるけど、ガスがかかっていない頂上からの眺めも見てみたい。うーむ、どうしようかな。何人かが僕を追い越していく。少し進んでは止まって空を見てを数度繰り返す。まだ薄墨色の雲も停滞していた。山は期待通りにいかないものだ、踏ん切りつかないなら止めよう。そう決めて下山を開始する。残り三分の一ぐらいの場所に位置する富士見山荘を過ぎたあたりから太もも内側がつりそうになりながらも、なんとか持ちこたえてくれた。予定より30分前に瑞牆山荘に到着。自販機前に置いてあった椅子に座り、靴を脱ぎ足を伸ばして脱力する。汗でびたっと肌に密着しているTシャツを脱いで、タオルで身体を拭く。既に予備の一枚を着てしまったので、替えは長袖のロンTしかもうない。仕方なくそれに着替えた。自販機で冷たい缶コーヒーを買って飲む。身体の中には新鮮な酸素が循環され、目は本来の光感受機能を取り戻し、ダイナミックな自然に生きている感覚が呼び起こされる、そんな登山だった。人工的な匂いを削ぐのに登山はいい。19時に新宿に戻ってきた。帰りのあずさも全席完売でほぼ立ちっぱなしだった。僕が住む街に着いて、何よりも先にお風呂に入りたかったので忘我の湯(仮名)に行く。お湯の気持ち良さにアーとかウーとか言いながら、湯船の中で力つきた廃人みたくぽけーっとなった。湯を堪能した後に、恋人さんと煩悩食堂(仮名)に行き、真っ先に頼んだビールをグビッといく。染み渡るアルコールが全身の力を奪っていき、僕は快楽の奴隷に甘んじて成り下がる。ああ、汗水流してたどり着いたこの美味さよ、火照る身体に恵みとなるこのキンとした冷たさよ、喉元弾ける美泡の心地よさよ。これで今日の1日を最高の形で終わらすことができる。あとはもう寝るだけ。ぐっすり深く、寝れそうだ。

武甲山 下山途中の水場に癒されて

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頂上から下山を開始して既に2時間近く歩き続けている。ずっと続く似たような道に飽きもきていた。それにひどく空腹だ。
早朝に出発するとき、食べる時間がなかったので、登山の起点となる埼玉の横瀬駅に着いたら近くのコンビにで何か買って食べようと思っていた。しかし、駅の周囲にあるのは民家と畑だけで、どこを探してもコンビニは見つからなかった。東京暮らしに慣れてしまうと、どこにでもコンビニがある感覚が身についてしまっていけない。仕方なく駅前の自販機で水とポカリだけを購入した。2時間で頂上に到達したが、頂上にも売店などはなかったので朝から結局8時間近く何も食べていないことになる。頂上では弁当を食べているグループがちらほら見受けられ、余計に空腹感を覚えることになった。
上空からは太陽の熱が直接照り付けて、体感温度は上昇している。左右に杉の大木が整然と並ぶ登山道のすぐ横には川が流れていて、時おり杉の隙間からその姿が現れた。水流の音が耳に心地良く響く。勢いがある流れではなく、歩くスピードと同じくらいゆっくりゆっくり聞こえてくる。水に入ったらきっと冷たくて気持ちいいだろうな、近くにいけるところがあったらそこで一休みしようと決めた。
水で身体を冷やすことを想像したらますます、是が非でも思いっきり水浴びしたいという欲が高まってきた。水の流れを聞いているのは飽きない。いつも不思議に思うのだけど、水の音を聞いていると思いがけず時間が経過しているということがこれまでに何度もあった。
僕は水の流れる音が好きなのだ。特に浅くて石や木材などで遮蔽するものがない澄んだ川の音が。好きな音に出会ったとき、いつまでも聞いていたいとさえ思う。眠れない夜は流れる川の音を聴きながら入眠することもあるほどだ。
相変わらずの似たような道の先に、やっと川のそばに出られる開けた場所に出た。気持ちが高まり、逸る足で川辺に向かった。大小さまざまな石が敷き詰められた川は、幅はそれほど広くはないが、十分な水量を蓄えて下っていく。近づけるところまで近づいていく。川辺の石に乗り、かがんで手を水につける。とても澄んだきれいな水であった。そして冷たかった。水を掬って飲む。食道を抜け身体の隅々に水がいきわたるのがわかる。服が濡れるのを構わずに両手で水を掬って顔と髪に何度もかけ続けた。疲労困憊している神経はそのきりっとした冷たさに目を覚まし、皮膚細胞はもっと水をとせがんでくる。本当に欲しているものが手にはいったとき、人間は至福の気持ちを抱き、喜びに満たされる。今がまさにその状態だ。角膜の濁りがなくなり、周りの自然は鮮やかな濃い緑色をしている。すっかり喉の渇きは癒えて、水を被った皮膚は風を受けて気持ちが良い。髪から水を滴らせながら、目線を上流に向けると2メートルくらいの滝があり、水が勢いをつけて落下していた。落下した水は水面にぶつかって弾け散らばり、日の光が細かく輝いた。あの滝まで行けないかなと思う。しかし、そこまでは深さもありそうだし、着替えがないので行くことができない。あそこで水を浴びたらさぞ最高だろうと思った。石の上に座り裸の足を水に浸して川の流れをしばらく見続けた。
休息したことで身体の軽さを感じ、まだ全然歩けるぞという活力が湧いてきた。ペットボトルの水が残りわずかになってきたので、川の中にペットボトルをつっこみ水を入れた。きっとあと30分くらいでふもとに到着するはずだ。そしたらふもとのお店で蕎麦とソフトクリームを食べようと決めていた。山のふもとに着けばお店があることはリサーチ済だ。
立ち上がり、これまでよりも快調なペースで足を進めていく。髪もシャツも濡れて水滴を垂らしているけど、この日差しが間もなく乾かしてくれるだろう。

槍ヶ岳 最後の梯子を登る

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この目の前の梯子を上れば登頂達成だ。梯子の真下から見上げる。その角度は、ほぼ垂直といってもいい。朝からずっとのぼり続けて疲弊している身体に、ここまでたどり着いたぞ、あともうちょっとだと声をかけて奮起を促す。
槍ヶ岳、最終地点。その名前が現すように、山頂部分は槍のように鋭角になって、空に突き出している。その勇ましい姿は登山者の多くを魅了してきた。槍の尖がった部分が最後の一番の難所といえる。ごつごつした岩場が登る者を威圧し、覚悟を問う。
槍の穂先が始まる地点からいくつかの梯子や鎖場をよじ登ってここまで到達した。そして、最後に設置されたこの梯子の数は31段あると登山本に書いてあった。たったなのか、そんなになのか、登る前にその数を知ったときは前者であったが、今見上げると後者の気持ちだ。とてつもなく高く、長く見える。
前を登る登山者と間隔が十分開いているのを確認して、梯子に手を伸ばす。伸ばした高さにある梯子を左手で掴んだ。掴むと手が汗ばんでいるのに気づく。恐怖感はここに来て強まっていることは確かだ。一度離してズボンに手のひらをこすりつけた。
もう一度掴む。鉄の梯子は高度がまだ高くないときは、日差しを受けて熱いくらいだったが今はひんやりと冷たい。鉄のざらりとした感触だけが手のひらに伝わってくる。右の手も同じように梯子を掴む。そして地面から左足を離して、静かにはしごにのせた。大きく息を吐く。3点支持を忘れない、絶対に下を向いてはいけない、その2つを言い聞かせて右足も梯子に乗せた。上に目を向け行くぞと声を出す。
右足をさらに一つ上にかけて、梯子をつかむ右手にぎゅっと力を込め、左手を離して上の段を掴む。しっかり掴んだら、次は右手を離して上に移動させる、そして掴む。そうだ、それでいい。そうやって少しづつ上にあがっていくだけだ。絶対に足を踏み外すんじゃないぞ。息遣いは荒く、必要以上に力んでしまうが、慎重に手と足を繰り出していく。きっと今の自分の顔をみたら引きつった顔をしているに違いない。楽しむ余裕なんていうのはこの時点ではなくなっていた。足元は見えないから、置いた足がまっすぐか、バランスは安定しているかを都度念入りに確認していく。
上に登っていくうちに、果たしてどれくらいの高さに今いるのか気になってしまい、言い聞かしていたことを忘れて、下を覗き見てしまった。見えたのは、落ちたら確実にただじゃすまないと思うほどの急な崖であった。見てしまったことを後悔した。心臓が速いペースで高鳴るのが、手に汗が滲んでくるのが分かる。下に落ちれば崖下に真っ逆さまだ。命の保障はない。
反射的に上を見る。前を行く登山者は登りきったようでもう見えない。しかし、まだ半分の距離も満たしていないことを知る。なんでこんなとこ登っているだよと、全く理不尽な言葉が自分を責める。登ると決めたのは紛れもなく自分自身なのに。もう見るんじゃないぞ。とにかく進まないといけない。早く登ってこの恐怖から解放されたい。僕はもう必死だ。
更に上へと登っていく。その途中、梯子にカツと何かがあたる音がした。下目で確認してみると、恐怖心から僕は梯子にすがりつくようになっていたため、梯子と身体が近づき、身体を動かす度にカメラが揺れて、カツンと梯子に当たってしまうのだった。押さえて登ることもできないし、ましてやこの状態ではカメラを掛けなおすことは不可能だ。
もうそんなことにかまっている余裕はなかった。カメラに傷がついたっていい。今はとにかく登ることだけに集中することに専念する。しかし、進むごとにカツン、カツンとあたり、何度目かの接触で何かが外れて、カカッ、カッ、カッ……と岩とそれがぶつかり落下していく音が聞こえた。
あ、何か落ちたぞ。慌ててカメラを覗き込むと、レンズキャップがなくなっていた。やってしまったと思った。落下する音はもう聞こえない。どこか途中の出っ張りとかに止まっていないかなと思うが、しかし、今はもうどうすることもできない。気にすべくはレンズよりも当然、自分の身だ。登ることに集中しろと言い聞かす。登山中の危険な箇所では大きな事故は少ないと聞いたことがある。危険に対する警戒心や集中力が強く働くからだと。気を抜くとそれが命取りになってしまうのだ。
一段、一段梯子をあがっていく。息は荒いまま、上だけを見て登る。ただ登る。そしてようやく、手を伸ばして最後の梯子を掴んだ。窮屈な姿勢になりながらも力一杯身体をこするように引き上げ頂上に到着した。やっと着いたという安堵感。そしてすぐに嬉しさがこみ上げてきた。高所恐怖症であるとの自覚はあるが、まさかここまで恐さを感じるとは思わなかった。
頂上部は思っていた以上に狭かった。ここは槍の先端、周囲はスパッと切り落としたかのような崖だ。足を踏み外したら確実に死ぬなと思った。しばらく膝をついたまま、呼吸を落ち着ける。立ち上がり、そして飛び込んできた光景は恐怖や疲労感、擦りむいた手の甲の痛みなど、何もかもを吹き飛ばすには十分だった。360°眼下に広がる見渡すばかりの山々が、3千メートルを超える高さに自分がいることを物語っていた。僕が立つ頂にはひやりとする風が強く吹き続けていて、眼前の雲は千切れ形を変えていく。高度感が足を竦ませ、立ち上がったその場から動くことを躊躇わせた。視界は山と空が二分している。断崖絶壁の尾根や巨大な爬虫類を思わせる刺々しい岩壁の連なりを見おろした。ああ、ここは全てが剥き出しだ、剥き出しの大地が果てしなく広がっている。その光景を目の当たりにした僕は圧倒された。この時見た荒々しい山の姿は、僕の目に焼きつき今もはっきりと覚えている。