槍ヶ岳 最後の梯子を登る

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この目の前の梯子を上れば登頂達成だ。梯子の真下から見上げる。その角度は、ほぼ垂直といってもいい。朝からずっとのぼり続けて疲弊している身体に、ここまでたどり着いたぞ、あともうちょっとだと声をかけて奮起を促す。
槍ヶ岳、最終地点。その名前が現すように、山頂部分は槍のように鋭角になって、空に突き出している。その勇ましい姿は登山者の多くを魅了してきた。槍の尖がった部分が最後の一番の難所といえる。ごつごつした岩場が登る者を威圧し、覚悟を問う。
槍の穂先が始まる地点からいくつかの梯子や鎖場をよじ登ってここまで到達した。そして、最後に設置されたこの梯子の数は31段あると登山本に書いてあった。たったなのか、そんなになのか、登る前にその数を知ったときは前者であったが、今見上げると後者の気持ちだ。とてつもなく高く、長く見える。
前を登る登山者と間隔が十分開いているのを確認して、梯子に手を伸ばす。伸ばした高さにある梯子を左手で掴んだ。掴むと手が汗ばんでいるのに気づく。恐怖感はここに来て強まっていることは確かだ。一度離してズボンに手のひらをこすりつけた。
もう一度掴む。鉄の梯子は高度がまだ高くないときは、日差しを受けて熱いくらいだったが今はひんやりと冷たい。鉄のざらりとした感触だけが手のひらに伝わってくる。右の手も同じように梯子を掴む。そして地面から左足を離して、静かにはしごにのせた。大きく息を吐く。3点支持を忘れない、絶対に下を向いてはいけない、その2つを言い聞かせて右足も梯子に乗せた。上に目を向け行くぞと声を出す。
右足をさらに一つ上にかけて、梯子をつかむ右手にぎゅっと力を込め、左手を離して上の段を掴む。しっかり掴んだら、次は右手を離して上に移動させる、そして掴む。そうだ、それでいい。そうやって少しづつ上にあがっていくだけだ。絶対に足を踏み外すんじゃないぞ。息遣いは荒く、必要以上に力んでしまうが、慎重に手と足を繰り出していく。きっと今の自分の顔をみたら引きつった顔をしているに違いない。楽しむ余裕なんていうのはこの時点ではなくなっていた。足元は見えないから、置いた足がまっすぐか、バランスは安定しているかを都度念入りに確認していく。
上に登っていくうちに、果たしてどれくらいの高さに今いるのか気になってしまい、言い聞かしていたことを忘れて、下を覗き見てしまった。見えたのは、落ちたら確実にただじゃすまないと思うほどの急な崖であった。見てしまったことを後悔した。心臓が速いペースで高鳴るのが、手に汗が滲んでくるのが分かる。下に落ちれば崖下に真っ逆さまだ。命の保障はない。
反射的に上を見る。前を行く登山者は登りきったようでもう見えない。しかし、まだ半分の距離も満たしていないことを知る。なんでこんなとこ登っているだよと、全く理不尽な言葉が自分を責める。登ると決めたのは紛れもなく自分自身なのに。もう見るんじゃないぞ。とにかく進まないといけない。早く登ってこの恐怖から解放されたい。僕はもう必死だ。
更に上へと登っていく。その途中、梯子にカツと何かがあたる音がした。下目で確認してみると、恐怖心から僕は梯子にすがりつくようになっていたため、梯子と身体が近づき、身体を動かす度にカメラが揺れて、カツンと梯子に当たってしまうのだった。押さえて登ることもできないし、ましてやこの状態ではカメラを掛けなおすことは不可能だ。
もうそんなことにかまっている余裕はなかった。カメラに傷がついたっていい。今はとにかく登ることだけに集中することに専念する。しかし、進むごとにカツン、カツンとあたり、何度目かの接触で何かが外れて、カカッ、カッ、カッ……と岩とそれがぶつかり落下していく音が聞こえた。
あ、何か落ちたぞ。慌ててカメラを覗き込むと、レンズキャップがなくなっていた。やってしまったと思った。落下する音はもう聞こえない。どこか途中の出っ張りとかに止まっていないかなと思うが、しかし、今はもうどうすることもできない。気にすべくはレンズよりも当然、自分の身だ。登ることに集中しろと言い聞かす。登山中の危険な箇所では大きな事故は少ないと聞いたことがある。危険に対する警戒心や集中力が強く働くからだと。気を抜くとそれが命取りになってしまうのだ。
一段、一段梯子をあがっていく。息は荒いまま、上だけを見て登る。ただ登る。そしてようやく、手を伸ばして最後の梯子を掴んだ。窮屈な姿勢になりながらも力一杯身体をこするように引き上げ頂上に到着した。やっと着いたという安堵感。そしてすぐに嬉しさがこみ上げてきた。高所恐怖症であるとの自覚はあるが、まさかここまで恐さを感じるとは思わなかった。
頂上部は思っていた以上に狭かった。ここは槍の先端、周囲はスパッと切り落としたかのような崖だ。足を踏み外したら確実に死ぬなと思った。しばらく膝をついたまま、呼吸を落ち着ける。立ち上がり、そして飛び込んできた光景は恐怖や疲労感、擦りむいた手の甲の痛みなど、何もかもを吹き飛ばすには十分だった。360°眼下に広がる見渡すばかりの山々が、3千メートルを超える高さに自分がいることを物語っていた。僕が立つ頂にはひやりとする風が強く吹き続けていて、眼前の雲は千切れ形を変えていく。高度感が足を竦ませ、立ち上がったその場から動くことを躊躇わせた。視界は山と空が二分している。断崖絶壁の尾根や巨大な爬虫類を思わせる刺々しい岩壁の連なりを見おろした。ああ、ここは全てが剥き出しだ、剥き出しの大地が果てしなく広がっている。その光景を目の当たりにした僕は圧倒された。この時見た荒々しい山の姿は、僕の目に焼きつき今もはっきりと覚えている。